木綿(コットン)布団の登場

室町末期の戦国時代に、軍旗・陣幕といった軍需品はもちろん、火縄銃の火縄の材料として、木綿(コットン)の需要が高かった事から、木綿の栽培は戦国大名の庇護のもとに全国へと広まった。
ところが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らによって、戦国の世は収束していく。
木綿(コットン)が、軍需から民需へと移行していった結果、木綿の布団=綿入れの敷き蒲団が登場する。
ふとんとは、敷き布団の事を指しており。現代の四角い形になっていた。
現代の掛け布団にあたるのは、夜着(ヤギ)といい、着物に襟・袖が付いており綿が入っていた。

遊郭の布団
相当に高価な、ふとん・夜具ではあったが、豊臣秀吉が各地に遊郭の設置を認めたのち、「日に千両の金が動く」と言われた遊郭が寝具の発達をリードした。
江戸時代の書『色道大鏡』によると、遊女には、太夫職・三八・天職・囲職・端女 の5階級があり、太夫職は三つ布団、天職は二つ布団、囲職は布団1枚と定まっていた。
つまり、敷き布団の枚数が多いほど、遊女の格が高かったのである。
『色道大鏡』には、寝具についての詳細も記されている。
太夫職…夜具には、唐織金入り、襴絹、びろうど、金入りの小寝巻き、金入りびろうどの縁、織物の枕掛け
当時の遊郭の豪華絢爛ぶるが伺える。
井原西鶴の『好色一代男』の主人公の世之助が、江戸吉原の高尾太夫の女郎盛りりを見ようと京都からはるばるやってくるが、用意した千両ではとても及ばないと落胆するさまが描かれている。
蒲団・夜具は、馴染みのお大尽に無心して贈ってもらい、これを贈られると、積み夜具・飾り夜具と称し、遊客の集まる時間にこれを飾って全盛ぶりをひけらかしたものであった。
江戸後期の『世間見聞録』によれば、遊女の布団・夜具で50両〜100両だったというから、大尽遊びというのは、まことに千両の金を湯水のごとくに浪費したものと考えてもいいだろう。
江戸時代、遊郭によって蒲団・夜具は、発達していった。
